「夏の焦燥」(8/29)
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 二、

 飛ばした甲斐あって,ヨシオはギリギリ間に合ってタイムカードを押せた.
「ふー,あぶねぇ」
 ヨシオはデスクに就くと,襟止のあたりをつかんで服を扇いだ.社内は冷房がよく効いていて,心地よい涼しさだった.
「あれ,林のやつまだ来てないのか?」
 隣席する渡部に,向かいの同僚の所在を尋ねた.林はヨシオと入社が同期で,課内では一番親しい友人だ.
「そうですね.林さん珍しいですよね.いつも僕より早く出てくるのに」
 渡部はヨシオ達の二期下の後輩で,真面目でよく気がつく,便利な存在だ.
「アイツ昨日よく飲んだからな」
 昨日は仕事が終わってから,ヨシオと林と同課の鈴本とで,他の課の女の子をひっかけてはしごしたのである.
「二日酔いか」
「稲葉さんは大丈夫だったんですか?」
 渡部が尋ねる.稲葉はヨシオのことだ.
「俺は運転手だったから飲まなかった」
「うわぁ,そりゃご愁傷様.代行とか使えばよかったのに」
「その後,みんな俺が送ったんだぜ.全く運がない」
 ヨシオ達は男三人でくじを引き,その日の運転手を決めていたのだ.
「つっても,駅とかバス停までだけどな.それにしても,やっぱりタクシーは呼んどくべきだよな」
 ヨシオは天井を仰いだ.
「おい稲葉.いつまでくっちゃべってるんだ.さっさと仕事に就かんか」
 課長の笹原がしびれを切らして怒声をあげる.
「あ,課長おはようございます」
 「いらしてたんですね…」つい口が滑りそうになる.笹原は背が低い.ヨシオの席から課長の方を見ると,パソコンのモニターの陰になって彼はまるきり見えなくなってしまうのである.
「お前は何時に入ってきたと思ってるんだ!私がギリギリに駆け込んできたお前より遅く来てるとでも思っとるんか!」
 課長はヨシオをまくし立てる.
「あ,でも,課長…朝の会議は…」
 課長級以上は,今日は朝に定例の会議が入っているはずである.
「早く終わった.それと稲葉.あとからお前のところに警察が来るそうだ」
 笹原はついで事のようにさらりと伝えた.
「ええ!どういうことです課長!警察が私に何の用です?」
 パソコンの後ろから伝えられる大事に,思わず立ち上がるヨシオ.
「今朝,四ッ牧川で死体が上がったろ.あの件について事情聴取したいんだと」
 笹原は片眉を吊り上げて,ヨシオを見上げた.
「確かに今日,その現場近くは通りましたけど,私は何も知りませんよ」
「私に言うな.ただの事情聴取だろ.それよりお前,後からいなくなるんだから,さっさと仕事にかかれ,皆もう始めてるぞ」
「そんな薄情な…」
 そう言われて周りを見回すと,皆黙々と自分の仕事を始めていた.隣を見ると,渡部もちゃっかり仕事にかかっている.
 ああ,お前!―ヨシオは慌てて席に身を沈め,小声で渡部に話し掛けようとした.後輩のくせに先輩を出し抜いて,云々と.
「おい,稲葉」
 突然、背後から小声で名前を呼ばれ,ヨシオは肩に腕を回された.驚いて振り返る.
「なっ,あ,先輩」
 顔を近づけてきたのは,ビジネスマンらしくない無精ひげを生やした,鈴本だった.彼は昨日一緒に飲みに行った一人である.
「どうしたんですか?」
「いいから,ちょっと来い.話がある」
 鈴本は強引にヨシオをデスクから離した.
「何言ってんです.仕事中ですよ.今課長に言われたばかりじゃないですか」
「そんなのより重要な話だ.ここじゃできない」
 鈴本はそう言ってヨシオをオフィスから引きづり出した.


「一体どうしたって言うんです?先輩」
 鈴本はヨシオをトイレまで連れてきた.トイレは今時分誰もいない.
「昨日一緒に飲んだ中に,販促の前橋奈美っていたの覚えてるか?」
 誰もいないにもかかわらず,鈴本は声を潜める.
「え,ええ,確かにいました.ショートカットのほうでしょ.結構酒に強かった子」
 二人は手洗い場の前で,鏡に向って並んで話し始めた.
「そう,そうだよ.その子が今日,死んだんだよ」
「えぇっ!」
「お前も知ってるだろ,四ッ牧川で女の死体が上がったって」
「そんな,俺昨日,彼女と林を市井駅まで送りましたよ.ちゃんと」
 二人が駅舎に入っていく情景は今でも鮮明に覚えている.林はだらしなくも,酒に呑まれフラフラで,前橋奈美がそれを支えるように連れ添っていったのだ.危なそうだった林ならいざ知らず,割とケロッとしていた前橋奈美が死ぬなんて….
 鈴本が指さしてヨシオを見る。
「その林は今日どうした?」
「アイツは,まだ来てませんけど….あっ,でもそんな…」
 ヨシオの目に,前橋奈美を殺す林の様子が浮かんできた.夜の河川敷で,尻餅をついて後ずさる前橋奈美の恐怖に満ちた表情が,それに向かって振り下ろされる石が,妙にリアルに想像できる.
 鈴本は目をそらすヨシオを鋭く見据える.まるでヨシオの脳裏に浮かんだ映像を見透かしたように,無言で新たな見解を提示する.
 林が殺される光景がヨシオの脳裏をよぎった。酔いつぶれて骨抜きになった林が….
「どっちも最悪の事態だ」
 恐ろしい想像に,身を固くするヨシオに,鈴本が口を挟んだ.
「な,何を言うんです!まだ林がそうと決まったわけではないでしょう.ただ二日酔いでへばってるだけかもしれないのに」
 ヨシオは頭に浮かんだ映像を振り払う為にも,声を荒げて言った.
「そ,そうだな.すまん.林は後から連絡つければわかることだ.そう高ぶるな.そろそろオフィスに戻るぞ」
 鈴本はそう言って,出口のドアを引いた.
「そ,そうですね.戻りましょう」
 ヨシオも鈴本につられてトイレを出る.


 廊下を歩きながらヨシオも少し落ちついてきた.
「でも…」
 ヨシオは考えた.前橋奈美を降ろした市井駅と彼女が死んでいた栄茅橋は市街を挟んで全く逆方向にある.酔っていたとはいえ,彼女が電車に乗らず駅を出て,一人で遠く四ッ牧川まで来るとは考えられなかった.
「前橋奈美は殺されたんですよね」
 それだけは揺るぎない事実のようだった.