「夏の焦燥」(8/29)
至ってありがちなサスペンス系(後から変わりますが)。
題はリクエスト。課題みたいなものか。
改訂(8/29)
1   


   「夏の焦燥」

 一、
 時刻は8時15分.熱帯夜でなかなか寝付けなかったせいで,ヨシオは今日も寝坊した。寝汗でべったりした体に不快感を覚えるが,ここでシャワーを浴びていては確実に遅刻してしまう.洗面のみで我慢するしかなかった.
 洗面台の前に立って,鏡に映る自分を見る.「ハァ…」と溜息一つついて、溜めた水に顔を突っ込む.寝起きのモヤモヤを拭うように,水しぶきを散らせて激しく顔を洗う.
「ん?」
 ふと,異変に気づいたヨシオは,鼻から出したような声を漏らす.顔を洗う手を止め,目を開ける.
 ―海のニオイがする.
 ヨシオは手に汲んだ水を捨て,鼻頭に手の平を近づけた.
 手から放たれる異臭.水が臭っているわけではない.試しに水を舐めてみるが塩味などはしない.
「なんだ…?」
 ヨシオは掛けてあるタオルを手に取り,顔と手を拭いてから,もう一度よく手の臭いを嗅いだ.
「やっぱりするな」
 海のニオイ.こう言うと潮風に乗ってくる爽やかでいて懐かしい匂いを想像するかもしれない.しかしこのニオイは,こびれ付くような鉄の,生臭く温かいニオイである.
「気持ち悪いな.汗の臭いか?」
 ヨシオは手にハンドソープをたっぷりつけて,臭いが取れるまでよく洗った.

 身なりを整えるのに10分.9時の就業まであと30分しかない.
 健康には気を使いたいのだが,時間がそれを許してくれない.
「また朝食抜きか…」
 ヨシオは恨めしそうに空の冷蔵庫を開けてつぶやいた.
 テレビをつけ朝刊を開くが,殺人事件や交通事故,政治家がどうのと,興味を引くような記事もない.勿体無いが朝刊は2・3分で古新聞である.
 時計を見ると8時35分.会社までは車で20分かかる.
「くそ,また今日もぎりぎりか」
 ヨシオは戸締りをして急いで家を出た.

 車で10分程走ると川に出る.四ッ牧川という一級河川だ.会社はこの川の向こう側.毎日必ずこの川を渡っているのだが,いつも同じ橋を通るとは限らない.ヨシオは気分や道路の混み具合によって毎日出社ルートを変えているのである.
 しかし今日は急いでいるので,気分で…などと決めている余裕はない.心の赴くままに,栄茅(さかち)橋を選択した.
 橋にさしかかった時,対岸の河川敷に数人の人影が見えた.よく見ると土手から川岸にかけて黄色いテープが張られ,堤防上に止まっている2台は警察車輌だとわかった.
「なんだ,事件か?」
 ヨシオは頭を低くしてその様子を覗き込んだ.
「そういや,ここら辺で死体が上がったって言ってたな…」
 今朝の新聞の地方欄に,大きな見出しで「四ッ牧川で女性他殺体見つかる」という記事があったのを思い出した.犯人はまだ捕まっていないそうだ.
 前の車のブレーキランプが点灯する.橋を通りかかった車が現場を見ようとして速度を緩めるためか,ラッシュ時と重なって橋の上には渋滞が出来ていた.
「ああ,くそ.こんなところで止まるなよ」
 急いでいる彼にとっては,この上なくイラつくことである.ヨシオはただの殺人事件に好奇の目を向ける野次馬連中と,何も考えずにこの橋を選んだ自分に無性に腹が立った.
 時刻は8時45分を回った.車内冷房をガンガンかけているにもかかわらず,ヨシオの手は汗でにじんだ.