カント

イマヌエル・カント(ドイツ,1724〜1804)
 「彼の思想を否定しても,彼の存在の重要性を認めない人はいないだろう」と言わしめた偉大な哲学者.
 彼はよく学生に言った「諸君は私から哲学を学ぶのではなくて,哲学することを学ぶでしょう.思想を単に口まねするために学ぶのではなくて,考えることを学ぶでしょう」
 道徳の原理として「幸福にあずかるにふさわしくあること」を重んじた.
 ルソーの「エミール」から彼は大きな影響を受けた「目のくらんだ優越感は消え失せ,私は人間を尊敬することを学んだ.もし私が次のことを信じないなら,私は普通の労働者よりもはるかに恥ずべき人間であることを知らねばならないであろう.すなわち,人間を尊敬するというこの考え方こそ,すべての他の人に一つの価値を与えることができ,その価値からこそ,人間らしい諸権利が由来するのだということを」.彼の目は知識から人間へと向き「人間とは何か」という彼の哲学の根本問題がいろいろな形で芽生えはじめた.
 実体の存在や因果律を否定したデーヴィッド・ヒュームの懐疑論によって,経験に基づかない学である形而上学が否定されたことで,カントは形而上学が学として可能かどうか問うてみた.「純粋理性批判」(批判とは検査.自分は何を知ることができるのか.人間の認識能力を検査して,その限界や働く範囲がわかれば,形而上学の可否が決する) 
 判断┳━総合判断(例「7プラス5は12である」という判断で,7や5という主語の概念をいくら分析しても12という結論がでてこないものをいう.主語と述語が結びついているけど,結論が主語以外のところからくる判断)
   ┗━分析的判断(例「ふたごは兄弟である」というような,「ふたご」という主語の概念の中にすでに「兄弟」という述語の概念が含まれている判断)
 学問に必要なのは,別の概念を結びつけて,より広い認識を得る総合判断.
 認識┳━アポステリオリ(後天的)な認識(経験に基づいている)
   ┗━アプリオリ(先天的)な認識(経験とは関係なくもっている)
 普遍的で必然的なものは,人間の精神の内部構造からくるアプリオリな認識に由来する.「7プラス5は12である」という例は直感の助けを必要とし,経験からは導き出せないので先天的総合判断となる(数学物理なども).では神,自由,不死の問題の解決を目指す形而上学はどうか,人間の認識能力の検査をする.
 私たちは空間と時間の中で知覚しています.空間と時間は,私たちの経験や知覚,判断の前提となっているもの.しかし空間・時間のなかで,感性の働きによって知覚するだけでは認識ではありません.知覚されたものを悟性の働きまでまとめ上げることが必要.この働きがあって私たちは初めて事物を判断する.カントは人間の判断の形式として「十二の範疇」(純粋悟性概念)を考えた.知覚されたものは悟性によってこの形式の中に分類され,形作られて概念となる.悟性が間違いなく「十二の範疇」を使い分けることができる能力が「判断力」とされた.
 しかしこれらは経験の世界のものを扱っているにすぎません.そこでアプリオリな認識能力をもつはずの理性が登場します.悟性が知覚されたものをまとめ上げて概念を作ったように,理性はその概念をさらにまとめて,私たちの認識により高い統一を与える.このとき概念を把握するのに用いられるものを「理性概念」とした.「理性概念」はあらゆる経験がその基に従属するが,それ自身はけっして経験の対象とならないようなものとして「アプリオリな理念」という.
 この理念は@心的理念(主観に対して統一を要求するもの)
      A世界理念(現象するさまざまな客観に対して統一を要求するもの.現象の無制約的な統一は宇宙論の対象となるので)
      B神的理念(あらゆるものに対して統一を要求するもの.思考の対象となる一切のものの無制約的な統一は神学の対象となるので)
 これらの理念だけが私たちに命令を下し,私たちの内部に方向を与えてくれる.
 「先験的理念自身の間に,ある種の連関と統一とが明らかに示され,純粋理性がこの連関と統一とによってあらゆる認識を一つの体系たらしめることもまた知られるところである.自己自身(心)の認識から世界の認識へ,さらにこれを経て根源的存在体(神)へと進むことは,きわめて自然な進み行きであって,これは一見,前提から発して結論へと進む理性の理論的行進に似たものを持っている」
 これは形而上学が可能であるということを言っているわけではない.カントはさらにこの理念を吟味して,統一を求めてやまない理性も,私たちの身の回りにあるものに対するのと同じやり方では,形而上学のたいしょうである,神,自由,不死について知ることができないという結論に達した.ここに人間の認識能力の限界があった.
 「まさしく限界を知ることに哲学がある」しかし彼はあきらめたわけではなかった.形而上学が自然科学の対象でないことを明らかにしただけなのです.そしてそれまでの形而上学がそこのところをごちゃまぜにしていたことを指摘した.私たちは理性によって神の実存を証明することよりも,神の実存を確信することが必要なのだと言いました.

 「純粋理性批判」において失ったものを彼は道徳意識である「実践理性」で基礎づけた.ここでは人間は何をしたらよいかということが問題にされている.何かよいことをしたとき,その背後に自分の感情(褒められたいとか,そのことが自分の気に入ってることだからとか)があったら,その行為は事実上正しいという意味での「合法的」であっても,道徳性がないものとされた.道徳性のある行為とは,道徳律に基づいてなされる行為である.道徳律とは「汝はそうしなければならない,だからそうすることができる」という理性の命令,人間の義務とされます.彼は言う「義務,汝,崇高にして偉大な名よ!この法則は命ずるものであり,我々の傾向に気にいるようなものを我々の好むがままに選択せしめるものではない.これが心を道徳的に陶冶する唯一の方法である」.私たちは行為をするとき,その行為が客観的に道徳法則に合っているか問わなければならない.そして宗教はこの道徳的行為にのみ基礎づけられる.
 最後の批判書「判断力批判」では,感情の問題が取り扱われた.感情には普遍的法則がないので,感情の判断を「美的判断」と「目的論的判断」とに分類し,考察した.

 彼の墓に刻まれた言葉「実践理性批判」より「それを思うことがたび重なればたび重なるほど,また長ければ長いほど,ますます新たな,かつますます強い感嘆と崇敬の念とをもって心を満たすものが二つある.わが上なる星の輝く空と,わが内なる道徳法則である」