イギリス哲学

フランシス・ベーコン(1561〜1626)
 学問は実際に利用できなければ意味がない。学問の根底(前提)には帰納的な方法を用いたもの(疑いのないもの)が必要である。経験主義。
 人間の精神を偏見や先入観から解き放つ。偏見や先入観は人々を誤りに陥らせる「幻影(イドラ)」があるから。
 イドラは4つ、
種族のイドラ(人間の性質が元々錯覚を起こしやすいものであるのに、それに頼ってしまうこと)、
洞窟のイドラ(各人の性格によって生じる傾向。心理は人間の性格によって左右されるものではない)、
市場のイドラ(人々のあいだの交際から生じる言葉の錯覚。言葉でわかったような気にさせられているのではないか)、
劇場のイドラ(権威や伝統を信じ込むことによって、あたかも劇中の出来事が本当であると思い込んでしまう間違いを犯すこと)
これらから人間が自由になったとき、学問は大いに進歩するだろう。


トマス・ホッブス(1588〜1679)
 哲学と神学を厳密に区別。存在するものは物体だけであり、全ての現象は物体の機械的運動に過ぎない。
 何かを知るということは、そのものが人間の感覚に働きかけるという運動を行い、それが脳に伝わり記憶として保存される。こうして得られた知識は言葉という共通の約束に支えられる。なぜなら言葉がなければ人間はどんな観念も持つことが出来ないし、正否もわからない。「真理は言葉に属しているのであって、事物にではない」
 国家が出来る前、人間は平等で、望むことを行うことが許されている(自然権)。このとき「人は人に対して狼である」と言い、自分の為に相手を滅ぼしたりもする。これでは生き残るチャンスが少ないので人々は自分の安全を守るため組織をつくる。個人個人の権利を棄てて、国家に権利を委ねることを契約する。その国家に服従することによって個々の安全を確保する、これを「国家契約説」と言う。


ジョン・ロック(1632〜1704)
 悟性の能力(認識能力)の研究。問題を論じる前にまず自分たちの能力を調べて、自分たち悟性が取り扱うのに適するか適さないかを見分けることが必要。
 生得観念(生まれつきそなわっている観念)を否定。人間ははじめ何の観念も持たない。人間の知識は経験に基づいている。経験は「感覚」と「反省」に分けられ、それぞれ「感覚」を通して外界から受けた印象を基につくる観念、そうして得られた観念について心の内部で起こる作用、つまりそれを考えたり疑ったり信じたりする、心のいろいろな知覚・観念をつくる。こうして得られた観念も「単純観念(外部から押し付けられる受動的観念)」「複合観念(単純観念を使って人間の心が能動的につくる観念)」に分けられる。更に複合観念は様相・実体・関係に分類され、抽象的な内容を持つ。
 観念とそれから得られる知識を表す記号として「言葉」がある。


アイザック・ニュートン(1642〜1727)
 「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」微積分法、万有引力の法則、運動の法則、惑星の運動などを解明。ある法則が数多くの結果を導き出し、実験や観察の結果と一致していることを示した。


ジョージ・バークリ(1685〜1753)
 ロックの考えより主観的な観念論に行き着く。


デービット・ヒューム(1711〜1776)
 ロックの考えより徹底した経験論に行き着く。学の基礎を経験と観察に置く。精神に対しては人々の普段の生活の観察が肝要。
 原因と結果に必然性があるという因果律を否定。それは習慣にのみ起因する。
 人間の知性は限界があり、各人の人間性に依る。他人が快いと感じることに対する共感が、人間を社会の善や人類の善へと向かわせる。


アダム・スミス(1723〜1790)
 経済学者、道徳哲学者。ヒュームを受け継ぐ。


ジェレミー・ベンサム(1748〜1832)
 功利主義。「最大多数者の最大幸福」。