「静かに眠って、」(1/4)
ちょっと偏った(?)話です。
死神姉さんとお子様の悲愴な物語。になるかもしれません。
ちょっと猟奇入ってる。


 はらはらと、白く細かい雪が遥かなる上空から路面にたどり着く。
 しかしいくら降っても雪は、その地面を白く化粧することに叶わない。人々がその上を往来するからだ。
 踏みにじられた雪は汚く、邪魔な存在となり、その清廉さを失っていく。
 大きな交差点の頭上には、街頭テレビが輝き、藍色の寒空に浮かび上がっていた。
 夕方のニュースが入っている。
 馴染みのキャスターの声は今日も落胆に満ちていた。
「今日午前9時頃、栄町藤田の津路山山道で、小学生を乗せたマイクロバスが13メートル下の谷底に転落、爆発炎上するという傷ましい事故が起こりました。この事故で児童21人を含む23名が死亡、3人が重体、1人が重傷、4人が軽傷…」
 キャスターの女性は非対称に眉を吊り上げ、いびつで訝しげな表情をつくる。
「現場はカーブの多い登板車線で、警察では、バスがカーブを曲がりきれずに転落したものと見ています。マイクロバスを貸しきっていた辻本小学校では今日、遠足のため3,4年生が津路山へ行くことになっていました。 の児童の ため 現場は。小学生28人を 乗せた が、 小学生…」
 ニュースキャスターの悲痛な表情とは裏腹に、街頭テレビ前の広場には足を止める者もなく、家路を急ぐ人々で混雑していた。


 今日も空に藍色のカーテンが落ちてきました。私は、街を見下ろす山の木の上で、今日も悩みます。
 毎日たくさんの人が死にます。今回のように、目も当てられないような惨たらしい現場で、色褪せた死体を晒す人もいれば、布団の中で眠るように息を引きとる人もいます。
 でも、私にはどんな死に方をした人も同じに見えます。どの人も不安や恐れ、後悔が入り混じった人外の様相を呈しています。綺麗な死に顔をしている人も、死んでいくときには目も当てられないような苦悶の様相を浮かべるのです。それは、外に見える顔の表情や声色などではありません。内で悶える心の様子です。寄り添う私に、散々目を背けて生きてきた人々が、ありありと私の存在に気づく瞬間です。
 私には…、大人も子供もありません。私はただ、人々に死を与えるだけです。動けなくなった老人にも、まだ生まれてもいない小さな命にも、私は容赦なく手を差し伸べなければなりません。
 本当はこんなことはしたくないんです。でも、こうすることが私の務め、存在する方法なんです。私がいなくなれば、どんなことになるか…。世界の調和が崩れ、いれるはずの人がこの世界にいれなくなるかもしれないのです。もちろんそれは人に限った事ではありません。私は生きとし生けるもの全ての存在に関わってくるものなのです。
 人々が嘆き、悲しむのは好きではありません。皆、私に気づくと怖れ、慄きます。まるで赤ん坊の様に泣き叫びます。そんな様子を今日も見なければならないかと思うと、私は気が重くてなりません。
 それでも私に課せられた責任は重大です。人々にとって必須なのです。
 ああ、それなのに、気の遠くなるような永い間続けてきた仕事なのに、またしてもミスをしてしまった。私が手を引かなかったばかりに、生きることも死ぬことも出来なかった可哀想な子…。私のように生と死の狭間で存在し続けなくてはならないのね。


「キハラケンタ君、キハラケンタ君。起きなさい」
 遠くで名前を呼ばれた気がして、キハラケンタは気がついた。そっと目を開けると、辺りは真っ暗だった。本当に何も見えない。横になってるはずなのに、地面に地面の感覚がない。ここがどこなのか、わからない。
 ここはどこ?
 ぼくは遠足に来たのに……。バスに乗って遠足に…。そしたらバスが傾いて、逆さまになって、ぼくは開いてた窓から外に出たんだ。寒いけどとっても天気が良くて、木の間から隣町の方まで見えたっけ。それで…
「真っ暗になって」
 ケンタはふいに声を出してつぶやいてみた。自分の口が耳元にあるように、鮮明に生々しく自分の声が聞こえた。
「ぼく生きてるの?」
 自分の声が耳障りになほど、耳に当たる。相変わらず辺りは真っ暗で、そこが広いのか狭いのかさえわからない。
 死んじゃったのかな、ぼく……。
「あっ…」
 その時、カーテンが開かれるように、辺りの雰囲気が一変した。
 開けられたそこも、暗いには暗かったのだが、限度のある暗さだった。横たわる体の上には深い藍色の空が見え、影に濃淡があるような雲がある。遠くには空と地平の境目が見える。そして眼下には街の灯かりがあった。
 キハラケンタは空中で横たわっていた。ぷかぷかと浮かんでいるようでもなく、風に揺られることもなく、地面で寝ているのと同じように、ケンタは空中で静止していたのである。
 ぼく、死んじゃったのかな。
 しかしこの事態にも、ケンタは背景の一変したのに少し驚いただけで、空に浮かんでいることも、自分が死んだらしいことにも驚く様子はなかった。
 耳元をビュウビュウと音をたてて、風が切っていく。
「…寒い…」
 ケンタは思わず身を縮めた。

「―あなたは寒くなんかないわ」
 その時、ケンタの耳元で女性の声がした。
「えっ?」
 驚いて彼は振り返った。肩越しに、ケンタの後ろに丈の長いローブのような服を着た若い女性が立っているのが見える。
「誰?」
 ケンタが尋ねる。しかし女はそれを無視して話を続けた。
「寒くなんかないわ。あなたはもう生きてはいないの。風に当たることももう、ないのよ…」
 女の口調は、始めの威勢とは逆に、言葉の終わりにはどこか悲しげであった。
「僕、バスと落ちて死んじゃったの?」
 ケンタは立ちあがると、女に向かって尋ねた。
「いいえ、あなたは死んでもいないの…」
 女は目をそらして、ケンタの質問にそう答えた。
「じゃあ僕、どうなっちゃったの?」
 女は少し間を置いてから静かに口を開いた。
「私はエンというものよ」
「エン?」
「そう、そしてあなたも今日からエンなのよ」
「僕がエン?僕はキハラケンタだよ」
 ケンタは訴えた。
「その名前も、いずれ忘れるわ」
「えっ?どういうこと?」
 ケンタには、彼女の言っていることの意味がわからなかった。
「私と同じように…」
 エンという女性はそう言うと、雲の端を追うように、遠くに目をやった。
 ケンタには、今自分が置かれている状況をしっかりと把握する術はなかったが、ただ、この空間も時間も、今自分の感じている全てのことが、秋風のように虚しく過ぎ去っていくのを、おぼろげに感じ取っていた。

 頭のすぐ上の雲がだんだん厚みを増して、濃くなってきた。風もビュウビュウと耳元でうなっている。
「行きましょう」
「……うん…」
「でも僕、ケンタだよ」

「そうね」


「ねえ、エン…さん」
 ケンタの口から、搾り出すような声が漏れる。
 辺りは快晴。草むらを靡かす風が、心做しか気持ちいい昼下がり。二人は高いアカスギの頂辺にいた。といっても、木の上に乗っているわけではない。木の上の空中に浮かんで立っているのである。しかしふわふわした感覚もなく、その感触は地面に立っているときとなんら変わりはなかった。
「……」
 ケンタの声に、エンは無視で答える。
 さっきからずっと沈黙が続いていた。彼女はその間じっと地上の一点を眺めている。沈黙に耐えきれなくなった少年が、意を決して口を開いたわけだが、彼がアイスブレーカーとなるにはいささか頼りない口調だった。
「ここ…どこ?」
「アイルランドよ」
 エンは地上を見つめたまま簡潔に答えた。
「え?」
「ヨーロッパよ。あなたの国の地図で言えば西の端ね」
 辺りは一面牧草地のような草原が広がっている。緩やかな地面の起伏に沿って、延々と緑の絨毯が敷き詰められていた。そして遠くには海や森、民家らしき建物もぽつんと見える。
「へえ…」
 少年の口から感嘆の声が漏れる。異国の地と聞いて、辺りを見回すケンタの目はさっきまでとは違った、輝きを持っていた。
「でもそんなことは気にしなくてもいいの。私たちにはそこが何処であるかなんて、全く関係のないことだから」
 エンはそんなケンタに冷や水をかけた。
「ほら、来たわ。彼よ」
 木の傍らに建てられた古い作業小屋に軽トラが一台、側で止まった。エンはそこから降りてくる一人の太った牧夫を指差す。
 汚れたつなぎの作業服に身を包んだ男は、無精ひげの目立つ顎を擦りながら、辺りを物色し始めた。
「あの人がどうしたの?」
「これから死ぬのよ」
 彼女は、草原を靡かす一陣の風のように、さらりと答えた。
「 、ええっ!?」
 ケンタは一間置いて、悲鳴にも似た驚きの声を上げる。そして矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「どうして?」
 エンは、ケンタの率直な質問には答えず、また勝手に話し出した。
「ほら、あなたにも見えるでしょう?彼の体が二重になっているのが」
 ケンタは腑に落ちない表情をしながらも、目を凝らして足元の牧夫を見た。
「そう言えば、なんだか黒いのがはみ出して見える」
 彼の身体には薄い影のようなオーラが纏わり着いていた。
「あなたも”エン”になったから、慣れれば全ての人がそんな風に見えるわ」
 エンは更に続けた。
「私たちの仕事は、あの人をこの世から隔離することよ」
「?」
 彼女はケンタの顔色を窺うように、チラリと彼を一瞥し、少し間をおいて、また話し始めた。
「…人って言うのは、自分を通して世界と繋がっているものなの。人は内界から外界に向けて、他と接する自分を形成し、それを通してこの世界で生きているわ。その形成したものの一つが身体であったり、性格であったり。
 その人をこの世界から隔離させるって言うことは、人が人であるための内なる本体を、彼の身体から引き離してしまう、ということ。そうすれば身体から離れた本体は周りの世界から完全に孤立してしまう。本体は自分自身を通してでしか外の世界と繋がっていられないからよ。
 そしてその人間の本体があの黒い影よ。無意識も含めた人間の内面の全て。彼の身体や性格といった姿は周りの世界と繋がるためのコネクタなの。それを失った人―本体は、これから自分自身が無意識のうちに作り上げてきた世界で存在し始める。私たちの使命は彼をそういう境遇に誘うことよ」
 エンはそこまで言うと、ひとつ息をついた。
「全然わかんないよ」
 ケンタが口を尖らす。彼にも、今から起こることに対してなんともいえぬ不安感はあった。しかしそれを現実に考えることを無意識に拒否してか、ケンタにはエンの言っていることが理解できなかった。
「つまりあの人から、黒いものを引っ張り出して切り離せばいいのよ」
 エンは穏やかな口調でわかりやすく説明する。
 ケンタはかぶりを振った。彼女の言うことが理解できない、というよりは、理解したくないと言っているのは明白だった。
 彼女は少年のそんな様子には気にも止めず、変わらぬ調子で彼に教唆する。
「でも、あのままの彼の本体を引き離して隔離することは、到底無理。私たちが力づくで引っ張ったところで全然敵わない強い力を彼は持ってるのよ。誰でもこの世界には強い執着があるから…。
 だから、彼を身体から離すためには、私たちの引っ張る力を助けるか彼の力を弱くする作用が必要なの。大抵は後者で物理的要因に依るわ。それに私たちにはその要因を作る力も与えられてあるみたい。そうして、結びつきが弱くなった身体と本体を切れるまで引っ張れば私たちの仕事は終わり。後は他の何かが彼に降りかかるはずよ」
 ケンタは耳を塞いで頭を振っている。割と、物分りのいい子ではある。
「私が、やって見せるから、しっかりと見てなさい」
 そういうと彼女は木から下りて、作業小屋の屋根に降り立った。
 牧夫には彼女の姿は見えない。彼は依然、小屋の周りで柄の長い鎌を手に持ち、探し物をしている。
 エンはもう一度、ケンタの方に振り返った。少年は木の上で、耳を塞ぎながらも彼女の方を恐る恐る見ている。
 それを確認した彼女は、大地に降り立ち、牧夫の側に寄った。ケンタから見て小屋の左側である。二人の様子がよく見て取れる。
 エンはただじっと、近くで男の行動を監視しているだけだ。
 しかし、すると男は、ふいに、鎌を持ち替え、それまで安全のため逆さにしていた鎌の刃の部分を下にして、おもむろに下草を刈り始めた。特に何気ない状況だ。男は無くした何かを探すため、下草を刈って探しやすくしているのだろう。
 漫然と鎌を振る男の側に、エンが近づいていった。
 そのとき、男が急に体勢を崩し、前につんのめった。草の切り株に躓いたのだ。ケンタの位置からもその様子は見て取れた。慌てて両手を前に出し、そして踏ん張りがつかずに男は前に倒れこむ。地面に突いた手は刈った草で滑り、役せず、重々しい身体を地面に叩きつけた。
 ギャッという小さな、獣に似た悲鳴が聞こえた。よく見ると、うつ伏せに倒れた彼の首、延髄の辺りから黒々と鈍光りする尖った金属が見える。血塗られた鎌の先だ。彼は持っていた鎌で無惨にも喉を一突きにされてしまった。
 エンを見ると、彼女は倒れた男の傍らで、さっきと同じように未だ吐息を吐く彼を見ていた。たった一つ、さっきと違う点は、彼女の手に鎌の柄が握られているところだった。その先は、血塗られた鎌と男の頭に繋がっている。
 恐らく、彼女が柄を握っていなければ、鎌の切っ先に倒れこんだ際、鎌の丸い嶺の部分が滑り、首を貫通するとまでは至っていなかったであろう。もしかしたら鎌ごと倒れ込み、全く大事には至らない”事故”だったかもしれない。
 エンは男の首が刺さっている鎌を、その刃で中身をえぐるように意図して、前方に倒した。そして、彼女は、その二つの腕を男の胴回りに回し、強く引っ張った。
 黒い影だけが彼女の腕に絡め取られ、胴体から引き出される。
 その時、喉を潰されているはずの男が、突き抜けるような悲鳴を上げた。
「――――――――」
 それは声ではない叫び。頭に直接響いてくる逃げようのない音だった。けたたましいサイレンが延々と続くように、強く不快感を煽る。大方引き出された彼の黒い本体は、それ全体で苦悶の表情を露にしている。その周辺全体が、叫び狂っているようだ。
 とても側に居れる情景ではなかった。
 かくいうエンも、大っぴらに面に出すことはなかったが、険しい表情は隠しきれていなかった。
 そして彼女がさらに力を込めて黒い影を引っ張ると、その影から身体に伸びていたランナーがぷっつりと切れ、その時辺りを満たしていた恐怖と悲恨の空間もピタッと止んだ。

 何事もなかったかのように、屍の上を一陣の風が通り過ぎていった。


 初めて”人”が隔離されるところを見た。大気に恐怖の色が浮かばせ、最大限の力を振り絞って抗い、人は死んでいく。風も草木もそれを受けて震え上がる。尋常ならざる叫びに、遂行者の心も共振する。死の危機に瀕した人間の本当の姿は、脳裏に焼き付いて離れなかった。
 しばらくの間ケンタはずっと泣きじゃくっていた。例えようもない恐怖を、涙で埋めようとしたのだ。
 エンは彼に対しなんの手も打とうとせず、その横に座り彼が落ち着くのを黙って待っているだけだった。神経が過敏になり感情的になっているのは、ケンタだけではない。エンもまた、落ち着くためには時間が必要だったのだ。
 そのうち、泣き疲れたからか、ケンタがしだいに静かになる。
 彼はあちらを向いて拗ねていた。正直、エンが怖くて仕方なかった。大事な使命とは言え、人を意図的に死ぬように―殺したのは他でもない隣の女性なのだから。いや殺したということより、ケンタのとっては、あの恐怖の情景を引き起こし自分に多大なダメージを与えたのが彼女である、ということのほうが直感的で大きかった。直接彼女から危害はないとしても、ケンタの体はエンから離れたがっていた。そしてその場の風景もまた、あの様相を作った一因として彼に疎外感を与えていた。彼は今、四面楚歌の孤立した存在で、一人で怖がっていた。
 ケンタがそんな風に考えているにせよ、彼が静かになったのを見て、エンは口を開いた。
「落ち着いた?」
 いつになく優しい口調で、彼女は少年の顔を覗き込む。
 自分に恐怖を与えた当事者ではあったが、一人で怖がるケンタにとっては、同一人物であれその言葉は少なからず救いであった。珍しく柔らかな口調に心が揺らいだ。
「私も、はじめの頃は泣いていたわ。きっと」
 エンはそんなケンタの様子を見て、一人喋りを始めた。
「あんまり昔のことだから憶えてないけどね。今でもまだ手が震えるもの。昔は怖くて怖くて、あの影に触れるのも嫌だったわ。人を殺してるっていう罪悪感もあったけど、なによりあの声が嫌。苦しむ姿が嫌。どんなに永い間やっても慣れることはない。とても怖いの…私も…」
 あちらの方向に目を向けながらも、ケンタはエンの声に耳を澄ませた。
「何で私がこんな目に遭わなければいけないのかって、怒った時もあったでしょうね。私をエンにした人がどんな人だったかは憶えてないけど、その人をとても憎んだ。今でもそう…。あなたも私のことは嫌いなのよね。あなたをこんな境遇にしたのは私なんだから。今そうでなくても、私と離れて一人で行動するようになったら、必ず私を憎むようになるわ…」
 そこでエンは口をつぐんだ。一瞬静寂が満ち、ケンタは気になってチラリと彼女の方に目をやる。肩膝を抱え、うつむいて座る彼女の頬に、一筋の涙が伝る。
 「あ」と言おうとした時、彼女の口から声が漏れる。
「…ごめんなさい、ごめんなさい…」
 彼女は指の端で涙を拭いながら、繰り返し謝った。その様子をケンタは不思議そうに眺める。
「ねえ、泣かないで」

「いつまでここにいるの?」


 彼らが定住することはない。仕事があれば地球上どこへでも飛んでいき、実行する。それは彼らの意思とは無関係で、むしろ連れて来られるといったほうが良いのかもしれない。
 彼らは仕事が終われば、次の場所に移動させられるまで、ずっとその場で待っていなければならない。彼らは自分の意思では動けないのだ。時には自分が手を下した亡骸と一緒に数日を共にすることもある。

 地球の影が満ち、天地を問わず半球に闇が訪れる。
 アイルランドにも夜のとばりが降りた。広い牧草地には人気もなく、草木だけが風にそよぐ。
 そんな中、エンの白いローブだけが闇に映えて、浮いて見える。彼女はすでに平静を取り戻していた。ケンタにいくら懺悔の念を抱いても、”エン”の存在意義についてしっかり教え終わるまでは毅然とした態度を崩すわけにはいかない。
 ケンタの質問に対するエンの答えは「わからない」だった。
 2人は木の上でじっとその時を待っていた。
「あ」
 なんの兆候も無しに辺りの景色が一変する。それは丁度、ケンタが闇の中から目覚めた時と同様、素早くカーテンが開かれるように、だった。

 開かれたそこは混雑を極める真昼間のストリートだった。二人はそれを見下ろすビルの屋上に立っている。けたたましいクラクションに、人の話し声、足音に、自転車のベル、喧騒は壁のようにビルを駆け上がってきた。
 インドあたりだろうか、サリーやターバンといった民族衣装を身にまとう人も見える。遠くの建物も玉葱型の円蓋を被っている。
 ケンタは、行き交う人々の流れに目を落とす。どの人の輪郭も陽炎のようなものでぼやけて見えた。
「人の後ろがボヤーっとして見える」
「透明な陽炎のようなものでしょ?あなたはまだ感度が低いのよ。たくさんの人を見ようとしないで、どれか一人に絞って目を凝らして見なさい。黒いオーラが付き纏って見えるはず」
 ケンタは言われた通り実行した。ボロ切れのような布を羽織った男に、半透明の黒いもやが重なって見える。同時にケンタに激しい嫌悪感が走った。
「やぁっ!」
 彼は両手を突き出し、ぎゅっと目を瞑って激しく拒絶した。黒い影を纏う人から、完全に目を背けたのだ。
「…大丈夫。彼じゃないわ」
 エンは少年の異常な反応に対し、やっぱり…といった表情を見せ、彼をなだめた。ケンタが再び人の本体を見ることによって、前のアイルランドでの光景がフラッシュバックされ、心の内で嫌な感覚が蒸し返された、ということは彼女自身よくわかっていることだった。
 ひどく嫌な感情は、あの凄まじい光景の一端でも担った些事によっても、簡単に引き出されるのである。衝撃が大きければ大きいほど、ただの平素のことであってもそれは簡単に繰り返されるのであった。
 そう、黒い本体が見える、というのは”エン”にとっては日常茶飯事、至極当然の些事なのである。彼女にはもちろん、全ての”エン”には黒い影が見えている。ケンタも時期がくればそれを体得し、活用しなくてはならなくなるのだ。彼がこれから”エン”として在り続けるためには、この拒絶反応はどうしても克服しなくてはならない課題であった。
「あなたの見た人は今回の死人にはならないわ。酷なようだけど、あなたがどんなに拒絶しても感じてしまうことはあなたの心に届いてしまうのよ。これからずっと…。早い内に慣れておきなさい。…せめて人を見ることだけでも」
 エンは通りに背を向けてうずくまるケンタに、励ましの声を掛けた。しかし彼女自身、慣れることの難しさは身をもって知っていた。だから自分で言いながらもこれが、根拠のない励ましであることは自覚していた。かといって残酷な事実を打ち明けることは、少年の拒絶ぶりがあまりにも不憫だったため、彼女にはどうしてもできなかった。

「もうすぐね」
 エンはケンタから目を離し、足元の大通りに目を落とす。その視線は迷いなく一人の女性を捕らえていた。
「私の言ってること、しっかりと聞いておくのよ」
 そういうとエンは視線を通行人に向けたまま話し始めた。
「私がどうして、あの雑踏の中からたった一人の標的を見つけられるか、わからないでしょ?―はっきり言って根拠はないわ。ただあの人だって、直感でわかるの。昔からの知り合いのように、あの人だってね。直感というより特殊な能力といった方がいいわね。それにどこで事が起こるかも、正確に知れてるわ。前のところでは私たちが行った時、そこに誰も居なかったでしょう?でも私にはどこで人が死ぬかはっきりとわかってた。いつかはわからないけど、待ってればあちらからやってくるって。直感でね。あの女性だって、あの交差点で…」
 エンが行く先にある交差点に目を向けた。ケンタも後ろ向きに座りながら、盗み見るようにその交差点に目をやった。人は見ないようにおぼろげにだったが。
「今度は私が手を貸さなくても、簡単に引っ張ることができそう。きっと交通事故でも起きるのね」
 そう言う彼女の声から、かすかに緊張がほぐれる。エンも何から何まで”殺す”のは嫌だった。
 その女性が運命の交差点に差し掛かるまでには、まだ時間がある。エンはケンタに向かうと、また喋り始めた。
「あなたには私の言ったことが感じられないでしょう。それはあなたが正式な”エン”じゃないから、ではないのよ。あなたが私の側で見てたことは、全て私に割り振られた仕事だからなのよ。その作業に関係のないあなたは、誰がとか何処でとかいったことはわからないのよ。私たちは二人で移動してるけど、これはあなたが”見習い”のようなもので、ただ付いてきてるだけ。仕事を負っていないあなたに、わからないのは当然なの。でも逆に言えば、もし今度移動した時に、その場所で私が何も感じなかったら、そこでの仕事はあなたがしなくちゃいけないのよ。その時はあなたも感じるでしょう、はっきりと何かが起きるって。でも私は手伝えない。本体を身体から引き離す作業は、割り振れられた”エン”にしかできないのよ。だからそのときはあなた一人でやらなきゃいけないの。それは次かもしれないし、何回も先のことかもしれない。何時になるかわからないけど、でも必ずやってくることなの。だから…、こんな所でぐずついてても後で大変になるだけ。今の内は私が傍に居てあげる。私を盾にしてでもいいから、勇気を出してしっかりと立ち向かって。ね。…ごめんなさいだけどもう後には戻れないのよ」
 エンは肩を抱いて、しっかりと彼の身体を起こした。
 するとうつむいたままのケンタが、重い口を開いた。
「どうして…『やらなきゃいけない』の?嫌だよ僕…」
 弱々しい口調が余韻を残すように、沈黙に尾を引いた。エンは黙っている。困惑して、口を開くかどうか躊躇していた。
「…もう、ほっといてよ…」
 ケンタが抱えた膝に頭を埋める。
「…実際のところはね、…」
 やっと開いたエンの口調は重く、強張っていた。彼女はもう、少年に偽りは言えない。
「『やらなきゃいけない』ではなく、『やってしまう』なのよ」
 言葉が、ケンタに圧し掛かる。
「目を背けても、あなたの手は動くのよ…」
 そう言うとエンは再び交差点に振り返った。あの女性が差しかかろうとしている。
「受け入れなさい…」
 そう言い残すと、彼女は屋上から飛んだ。ケンタは座り込んだまま、身体を丸めて目を瞑っている。
 エンは落ちるでもなく、滑るように空を降りて、交差点の上で止まった。
 ターゲットの女性は信号待ちをしている。人だかりの中の前列付近で、買い物かごを手にながい信号を待ちわびていた。
 彼女は普段着の民族衣装に身を包み、いつもの様に市場で買い物を済ませ、毎日変わらぬ込み具合の人ごみの中で、何気なく車の流れに目をやっていた。
 普段と変わらぬ日常が、永遠にも続くかのように思われたとき、突然平素を破るべくクラクションの音が響いた。一台の車が車線をはずれて信号待ちの人塊に突っ込んでくる。
 警笛に振り向く人たちをなぎ倒し、車は人塊の中ほどまで食い込んだ。数人の男女が倒れ、路面は血で染まっていく。
 悲鳴が沸き起こり、人塊が蠢く。
 エンのターゲットはこの惨劇に、直接巻き込まれてはいなかった。信号待ちの後方からっ込んできた車は、彼女の身体には触れることすらできずに止まった。
 にも拘らずエンは、交差点の真ん中から、彼女の上に滑るように近づいていった。
 その女性は、現場から退こうとする人の波に押されて、人塊の端に追いやられていた。知らず知らずの内に彼女は、車道の上に立っている。
 そこに、何も知らない無辜の車が、青信号を頼りに突っ込んできた。
「あっ…」
 と両者口を開けた時には、女性の身体は宙に舞っていた。
 地面に叩きつけられた彼女は、急ブレーキをかけられたにもかかわらず、さらに後続の車に刎ねられる。
「――――――――!!!」
 またしても声ではない叫びが、辺りを揺るがす。即死だった。
 身体にしっかりとまとわり付いていた黒いモヤは、肉体の繋ぎから放たれ、ゆらゆらと揺れながらはみ出てくる。
 エンは、身体から脱皮するように離れていく本体を捉まえると、一気にそれを引き上げた。既に黒い影は亡骸から離れているため、拍子抜けする程軽い。エンが空中に持っていくと、それは煙のように霧散した。
 隔離は容易に終了した。
 エンは、道端に転がる骸を瞥見すると、再びケンタの方に向かう。
 彼女は言った.
「この事故で数人が死んでるわ.どの人にも私が手がけた人と同様,一人一人に”エン”が来ていたのよ.でも彼らは見えない.人間にも,私たち同じエンにもね」


 すっかり辺りは暗くなった.白昼騒然の一部始終が過ぎ,夜の交差点から人気は失せていた.
 しかしそこにはまだ、怖駭の雰囲気が残っている.それは、昼間の喧騒が嘘のような静かなストリートに立っていた。
 ケンタは未だうずくまっていた.しかし頭をかき回したような拒絶意識は,徐々に薄れてあった.今彼を貝にさせているものは,大半が意地であった.
 背中合わせに立つエンは、下を向き、白いローブの端を見つめて、思案をめぐらしていた。
 この子がこうして閉じこもっていても"エン"にはなれてしまう。こうした教導の期間というのは本当は必要ないのよね。意思とは関係なく作業は進められ、しだいに"エン"の本当の意味を知っていく―。私が口で言うよりももっと確実で(残酷な)理解を与えられるというのに。何故私たちは一緒にいるの?この子が無知のまま"隔離"をしてしまう場合の、精神的衝撃を緩衝するための期間?いえ、この期間はむしろ私のための…、既存の"エン"の償いの期間なのか。何をすればいいかわからない盲目の幼い"エン"につけこんで、慕ってくることをいいことに教え諭すことで一方的な償いをして、そしてその子が自分に対して本当の憎悪を抱く前に別れてしまう…。そんな期間なんだ、今の状況は。彼のためなんて虚言ね。この子の試練はこれから始まっていくのよ。そして私はそのときにはもういない。そのとき彼はどう―?
 自分の時はどうだったのだろう?……覚えていない…か。(つくづく卑怯な摂理…)

 新たな殺戮の舞台を待つ二人は、静かだった.

 随分時間が経った気がした。二人を取り巻く静寂が、景色のカーテンをめくるようにして,突如破られた。安穏な夜の暇が,眩しさに忙しい白昼に変わる.
 そこはもう,どこだかわからなかった.
 だが,わかる必要もなかった.
 部屋に一つのベッドには,老人が休んでいた.すでに吸う息もままならない程,衰弱していた.
 壁の一面には,往年の功績を称える,数々の証書と記念品が並んでいた.この人は立派な人に違いない.そう思った.
「この人がどこで何をした人か,私は知らない.でももう時間なの.それだけはわかる」
 エンはそう言ってベッドの脇に近づいた.多少落ち着きを取り戻したケンタの身体が,硬直する.
 エンの指が触れた瞬間,寝返りもうてなかった老人が,過敏な反応を示す.気の強い人だったのだろうか,老体を取り巻く黒いモヤが烈火の如く沸き立った.
 エンは冷徹な無表情でそれを抱きかかえる.
 そして眉をひそめて引っ張った.
 ケンタは耳を塞いだ.しかし無駄だった.老君の魂の叫びは,どんな障壁も問わず,彼の頭を劈いた.
――――――――――――!!!!!!

 目を開けると,そこには死に絶えた老人も,ベッドもトロフィーも明るい部屋も無かった.目の前に立つ白いエンだけが唯一,道標のように確認できた.
「あ…,ここは?」
 辺りは真っ暗だった.
「わからない….でも地球上よ,新しい仕事が来たの.間断なくやってくることだって,たまにあるのよ」
 エンが疲れた笑みを見せる.
 どれだけやったって慣れることはない.そして終わることもない.
 疲弊した少年の心に,そんなことを吹き込むつもりはなくても,エンの表情はそれをわからせるに充分だった.
 ケンタは再び押し黙ってしまった.
「来た…」
 まもなくして,エンの唇がわずかに動いた.
 目が慣れてみると,ここが道路の上で,辺りは山を削って作られた峠道であることがわかった.遠く道の続く所で,山の中腹がチカッと光る.閑寂とした山間を一台の車が下りてくるのだ.
 二人はカーブ手前で車を待っていた.黒い山の中腹を,眩しいヘッドライトが闇夜を照射しながら近づいてくる.車に先立って,静閑な山路をエンジン音が駆け下りてきた.
 強い光が,見えない二人をしっかりと補足した.
 しかし捕らえられたのは車中の二人の方だった.
 若い男女の乗った車は,カーブ手前で対向車線に膨らみ,二人と重なるほど近くまで張り出し,インに….
 エンは手を返すような些細な動作によって,猛スピードの車体を外側に軽く引っ張った.
ギィンッ!
 車体がガードレールに触れた瞬間,火花を散らせ,車体は制御不能に陥った.
 真っ白な車体は暗い夜道を激しく踊った.山肌にぶつかったがそれでも止まらず,弾かれ,回転しながらガードレールの端を掠めて谷底に消えていった.
 エンが車を追って崖を降りる.
…ガシャッ!


 山はひっそりと静まり返った.それだけで事故の悲惨さを物語るに充分だった.
 しかしケンタの耳には,谷底からの深い悲鳴が.心を揺さぶる激しい感情が,ダイレクトに流れ込んでくる.ケンタは耳目を閉ざす.

 エンが戻ってきた.しかし二人はお互い声もかけない.
 しばらくして,何が火種かわからないが,崖下の鉄くずが突然爆発,炎上した.
 モクモクと沸き上がる黒煙.崖を駆け上がってくる熱気.
―これではまるで….胸を締め付けられるような思いがエンを襲った.
 彼女の困ったような,心配そうな眼差しを,しかし少年が感じることはなかった.その瞳には,赤々と燃え上がる炎と煙だけを映し出していたのだ.


 遠足に行く小学生を乗せたバスが,崖下に転落,爆発炎上する事故.死者24名.内22人が児童で,ほとんどが横転したバスから逃げ出せずに焼死した.
 しかし彼は,死因の大半を占めた焼死組とは違った.バスの車体に頭を潰されたのだった.だが死因など,この際どうでもよかった.
 幼い児童は死んだのだ.ブルーバックの画面には「木原健太くん(9)」の文字が,連々と続く氏名の列に混じっていた.


―私にまだこんなに人間的な思考が残っていたとは….
 心まで自然の一部となって,何も考えない機械のようなものになったのだ,と思っていたのに.ただ,何も考えず動くように手足を動かすだけだった.今みたいに腫れ物に触るように子供に接して,それでいて教導しなければならない,という難しい心情を抱えることはなかった.
―そして醜い感情も残っていた….
 はっきり言ってこんな仕事,今からでも放り出して,いつものように一人で機械のように動いていたい.
 一人になっても彼は,上手くやっていける.というより上手くやっていけないということは考えられない.彼が一人になるということは,“エン”になるということ,割り当てられた役割を―それも自然の理の一部を―任されるということ.彼が自分に割り当てられた仕事を処せないということは,死なない人が出てくるということ.そんなことはあり得ない.彼は今からでも,何も知らなかったバス事故直後の彼であっても,“エン”になることができる.何も知らなくても,自分が,自然の一部であって,自動的で,機械のように人を進むべき状態に処す存在である,ということは感覚的にわかってくること.
 何も私が教えなくても….
 彼には悪いけど…

 エンは次第に少年から離れたがるようになっていた.しかし彼女にはまだ人間的な,罪悪感と責任感も感情と同じく残っていた.そしてなによりも,どうすることもできない大きな力が,彼女を,少年の傍に繋ぎ止めていたのだ.


 長い,夜が明けた.道路にはタイヤ痕が炎の刺青の如く残っていた.
 崖下には黒焦げた車が,無機質に横転していた.
 少年は路肩に座っている.すっかり心を閉ざしたのか,一言も喋らない.
 エンもその傍に座って,黙っていた.小さな隣人にとても大きな存在を感じつつ.
 ある種拮抗した雰囲気であったが,それでもエンにとってはつかの間の休息だった.
 不安定な,しかし全てが止まったようなこの状態が,ずっと続けばいいのに,と思っていた.

「やっぱり…,僕は死んじゃったんだね…」
 平穏を破ったのは心を閉ざしていると思っていた少年だった.ポツリと言った小さな言葉だったが,エンは電気が走ったように驚き,俄に緊張した.
「…正確には違うけど….そうね,あなたが生きていないことは確かよ」
「そう…」
 少年は再び沈黙した.しかし長くは無かった.
「僕も,嫌なことしなくちゃだめ?」
 そう言って少年が白いローブにすがってくる.彼女はどう言っていいかわからず,ただ,少年の崩れた顔を見つめた.
「僕もあんなふうにしなくちゃだめ?」
 しかしこれにはエンの唇が動いた.
「いいえ,あなたは何もしなくていいの」
 その言葉に,少し困惑したような,少し安心したような少年の顔が一瞬目に映った.それがどういう心情を表しているのか―.
 しかし考える間も無く,景色の幕が開かれる.


 そこは、まぶしすぎることのない乳白色の壁に囲まれた小さな一室だった。建物の中である。必然的に,標的は視野内に収まった。
 しかしそこで彼女は,一種衝撃に似たものを感じた。
 死へ誘う対象は、目の前で数人の家族と医師に囲まれ、病床に伏しているロシアン小児であることは見てわかる。しかしそんなことよりも、

―なにも感じない。

 肩透かしをくらった驚きと同時に、
ついに来た!
 という緊張,恐れ,戸惑いが彼女を襲った.
 隣に座っていた少年がすくっと立ち上がる.彼女はそれに沿ってゆっくりと視線を上げる。
「(あ)…!」
 目を見開き、半ば口を開けて固まっている。
「あなたなのね、…あの子…」
 エンは諦めたように、そうつぶやいた。
 二人の視線は,か弱く息を吐く小児に向けられる。
 小児の傍らでは母親らしき女性が手を握り必死に呼びかけている。一間ほど手前に迫った死には見向きもしないで.
「頭が熱くなって…、ピーンときた。僕、あの子を知ってるみたい」
 独り言のように説明すると、苦しみ伏している友達の下へ、引き寄せられるように歩み始めた。
 ベッド脇に立つと、病臥する子供を抱きかかえるように,細い腕を小さな胴に回す。腕は生身の胴をすり抜けて、内に秘めたる黒い本体を確実に捕らえた。
 小さな体で、もう一回り小さな体を、機械的に引っ張る。モヤのような本体が、横たわる小児の上に滲み出てきた。粘度の高い液体のように,黒いもやは小さな体にへばりついている.そして小児が,というより,その周囲の空気が,この世のものとは思えぬ断末魔の叫びを上げる.
 細い腕は,機械的に引っ張る.黒い本体の大部分が身体から離れると,幾本ものランナーがそこから伸びている。本体は生身の身体を離れまいと、必死に腕を伸ばし抵抗する。病気によって弱っている抗力の中にも、生への強い執着が感じられる。
 しかし新たな"エン"の門出は、そう容易く否定されるものではなかった。無慈悲にも細い腕は更に力を込めて引っ張る。ビンビンと音を立ててランナーが伸びきり、バーンと、強い弦が切れるような音を上げ,本体と身体を結ぶ命綱が一つ一つと切れていく。ピアノの弦が次々と切れていくように、彼の短い人生の。色々をあらわす様々な音をたてて、切れていった。
 ガラスが割れるような小気味よい音ではない。ひどく不快な叫び声のような、激しい未練と恐怖の入り混じった音だった。放課後にピアノが突如割れるみたいな、急襲の惨劇による終焉だった。
 小児は短い息を吐いて,―見た目は―静かに死んだ。

 死人を囲む病室は,怖駭を顕す空気で満たされていた。
 その空気は,共通の,ただ一種のものだった.



 昔,一人の少年がエンになった.どういう経緯で,どのようにしてエンになったのか,誰も憶えていない.もしかしたらその少年は,私だったのかもしれない.今こうしてエンであるということは,私も,どこかのエンの間違いによって生と死の間から外されたということ….
 しかし,その手違えたエンも,私だったかもしれない.もう今となっては誰が誰かという概念はどうでもよいこと.

 ただ,発生の付近で憶えているのは,とても嫌なことがあったということ.言葉では言い尽くせない何かとてつもなく嫌なことがあったということ.そしてそのおぼろげなものが私たちの唯一の「記憶」と呼べるもの.ただそれさえも,誰の記憶なのかさえ,わからない.それは今,人を隔離する時感じるものに繋がっているような気がする.
 

 今はただ,機械的に,手足の動くままに動くだけ….

 なんとしても生きようとする人間が隔離される,あのときに覚える苦痛さえも,機械である自分の,働きの一部なのだと思えるくらい,今は無意的で,そして無為なのかもしれない.

 このエンの思考も,全く自動的で,機械的に自然に発するものであるならば,知っておいて欲しい.

 きっと自然のことわりは,私を通じてこう思っている.

あなたたちの至るべき道は絶望だけではありません.私が手を下すことによって,幸せになる人でいて欲しい。
どうか、静かに眠って。

     完