「風の話」(5/18)
これ新聞に投稿しようと思って書き始めた掌編。
何も起こらない話で、原稿用紙10枚を埋めるのは、僕にはできません。
太宰治みたく、ただただ心情を書き付けることもやろうと思ったけど、読みにくいからやめました。




 矢田一輝は無職。月を見ている。夜明け前の闇を、その冷たい光で満たす十六夜月。木や家や電柱は暗い影を伸ばし、互いにその長さを競っている。矢田は月に吸い寄せられるようにして歩いている。背広のすそは微風になびき、懐には春とは思えない冷ややかな空気が入り込んでくる。
「一日遅かったか…」

「矢田君、今日は何日か知っているか」
 それはもう、痛いほどわかってます。
「期限はいつだったかな」
 昨日でした。昨日中に通達もありました。わが社にしては驚くほど迅速な措置でした。
「そうか、今回の出来次第では考えなくもなかったんだが」
 予想通りだったんでしょう。提出と同時に辞令ということだってあったんだ。
「ゆっくり休みたまえ」

 突然、背広のすそとネクタイと、髪の毛が後ろに追いやられた。一陣の風が吹き去った。
 かと思うと、地面が足から離れていった。
 矢田一輝は風に飛ばされた。慌てて、ポケットに突っ込んでいた手を取り出した。しかし、ぬくぬくと温かい手は風に吹き晒されることはなかった。髪の毛もネクタイも、背広のすそもなびくのを止めてしまっていた。
「うっ、なんだ」
 風に流されているのか?
「うわっ」
 顔のすぐ傍をモミの木の幹が通り去って、それから左足のかかとに衝撃を覚えた。
「あっ…」
 フェンスが足に当たって、靴が脱げてしまった。木々とフェンスの陰が、ものすごい速さで目前から遠ざかっていく。地面に黄色い大地が見える。中学校のグラウンドに飛び込んだようだ。左足の革靴は防砂林とフェンスの向こう。今はどうすることも出来ない。
 頬が急に痒くなり、手を当てた。血がにじんでいる。モミの木と接触していたのだ。俄かに恐怖心がわいて、後ろを振り向く。電柱や道路標識、看板が林立する交差点に突っ込もうとしている。グラウンドはとうに過ぎていた。
 あと数秒を待たずにあの鉄の林に突っ込むことは、考えるまでもない。当然無事で済むような半端なスピードではない。
 矢田は固く目を閉じ、全身の筋肉を緊張させた。頭が破裂しそうに熱くなる。
「ひっ」
 耳元をごうっ、と音を立てて標識が通り過ぎる。思わず目を開けて、飛んでいく方向に目をやる。
 信号機の赤表示が目に飛び込む。あっ、と息を呑む間もなく眼前に迫り。しかし縫うようにして赤信号は矢田を避けて体の横を滑りぬけていく。
 さらに腹の下で行き違った看板が、矢田の体に触れることなくワイシャツのボタンをかすめ盗る。
「ああ…」
 矢田は交差点を抜けた。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、ものを考える隙はない。ただ、靴とボタンが取れたのは見ていたのでわかっている。

 矢田一輝は空に出た。家が、屋根が、全体が眼下に入った。徐々に上昇していく自分について、考える余裕も出来てきた。
 俺はなぜ飛ばされてしまったのだろう。いくらクビになって空っぽになっているからといって、風に飛ばされてしまうのはあまりにも軽率だろう。喩え、俺の体重がなくなっていたとしても、靴や服や財布は物として質量を維持していて欲しかった。それとも俺は自分の持ち物まで空っぽにしてしまうほど情けないのか。そうなのか…。
 肌寒かった風は何処からも吹きつけなくなったが、高度が上がるにつれて気温が下がってきた。木の葉のように舞っていた身体も、いつの間にか静止している。
 冷静さを取り戻した矢田は、客観的に現状を把握しようとして、不思議な感覚にぶつかった。
「これは…、飛ばされているといえるのか」
 自分が飛んでいるのか、止まっているのかよくわからない。
 遠く地平線は藍に染まり、また月は未だ青白く、足元には暗い街が広がり、空の上では風も吹かず、音もない。自分は何処に向かっているのか、よくわからない。よくわからない。
 よくわからない。が、しかし、それは別に今に始まったことではない気がするし、よく考えたところで自分から答えが出るわけでもなさそうだ。大事なのは今の自分を明らかにすることだ。それがわからないうちは、全てのことは児戯に劣ると言っていいかもしれない。
 よくよく考えてみる。
 考えれば考えるほど、今時分か悩んでいることがバカバカしくなってきた。
 なんてことはない。俺はただ、風に飛ばされて、風に乗って、…風になった。それでけである。
 フェンスには当たったが、信号には当たらなかった。軽々と舞い上がり、ずっと上を目指すのは、ただ風になっただけだからである。
「俺が、風…ね」

 矢田一輝は思い起こす。学生時代、文集に綴ったフレーズが浮かび上がる。
<僕は風になりたい>
 風は誰にでも平等に吹いてくれる。どんなすき間にも入ることが出来る。草木は風でそよぎ、雨雲は風に押されてやってくる。世界は風をうけて生きている。
 僕はそんな風になりたい。誰にでも平等に接し、不和を埋め、みんなのために役立ちたいと思う。