「夏の焦燥」(8/29)
   4


四、

 鈴本は考え事をしているのか,横を向いて流れる景色を見るばかりである.
 信号が赤になり,車は交差点の手前で停車した.信号待ちの車内でも,二人は何も喋らなかった.
 垂れ込めた暗雲から一閃,稲妻が空を割り,雷鳴が街中に響き渡った.間髪いれず,大粒の雨がフロントガラスに打ちつけてくる.
「あ,降ってきましたね」
 ヨシオはやっぱりといった感じで,空を見上げていった.今朝テレビをつけた時に、ちょうど今日の予報をやっていたのだ.
「午後から崩れるって言ってたからな.少し早まったんだな」
 助手席の鈴本も,ドアに頬杖をつきながら空を見上げた.
「傘あるんだろ?」
 鈴本はヨシオの方を見て聞いた.
「ええ,後ろにあります」
 見えるわけではないが,ヨシオはルームミラ−を覗いて後ろを見た.後部座席には常に傘が備え付けてある.鈴本もそのことは知っていた.
「そうか.俺も,車に傘ぐらい置いとくかな」
「便利ですよー.天気予報見なくてもいいですからね」
 ヨシオは嘲笑した.
「お前と違って俺は,朝に余裕があんだよ」
 鈴本は皮肉っぽく笑って返した.
「ハハ…」
 今日も遅刻ギリギリだったヨシオは,苦笑してみせた.しかし,固かった車内の雰囲気が少し和み,ヨシオは内心ホッとしていた.


 30分ほどで二人は林宅に到着した.駅に近いため林は電車で通勤しているが,車で来れない距離ではない.
 ヨシオは門とは反対側の車線に寄せて車を停めた.
「こりゃー,飯食う時間なくなるかもしれんぞ」
 鈴本が腕時計を見ながらぼやいた.
「そうっスね」
 外は相変わらず土砂降りである.ヨシオは体をひねって後部座席の備えの傘を取ろうとした.
「あれ?」
 ヨシオは拍子抜けた声を出し,身を乗り出して後ろを覗く.
「どうした?」
 後輩の不穏な空気を察し,鈴本が如何を尋ねる.
「いえ…,ちょっと傘が見当たらないんです」
 ヨシオはそう言ってシートを倒し,後部に移ってトランクの中やシートの下などを探し始めた.
「会社にでも置いてきたんじゃないのか?」
「いえ,そんなことは…」
 ヨシオはそう口を濁すだけで,諦めずに傘を捜し続ける.いつもあるはずの傘がこんな時に限って持ってないという不用意を,先輩の手前,そう簡単に認めるわけにはいかないのである.ヨシオは焦りつつも,無意識のうちに懸命に傘を捜す自分を鈴本にアピールした。
 そんなヨシオとは裏腹に鈴本は,傘探しに手間取っているヨシオの愚図さに,内心イライラしていた.気になって仕方がない林の家が,すぐ目の前にあるというのに,モタモタとありそうもない傘を捜し続けるヨシオが腹立たしかった.
「少しぐらい濡れても構うか.行くぞ」
 鈴本はそう言い放ってドアを開け,土砂降りの中に飛び出していった.
「え,あ,はい」
 驚いたヨシオも慌ててシートを戻し,すぐさまドアを開けた.
 車が来てないのを確認して,道路を横断した頃には,鈴本は門の前でチャイムを押していた.
 固い表情で耳を澄ましている鈴本に近づいていく.
「どうです?」
 チャイム下の応対スピーカーは沈黙を守っている.鈴本は無言でもう一度チャイムボタンを押す.
「…」
 雨の音にかき消されて,家の中で鳴り響いているはずのチャイムも漏れ聞こえてはこない.雨のせいで焦りが募るヨシオは,鈴本が何時にもましてイライラしているのをひしひしと感じ取っていた.
「誰も,居ない様ですね」
 ヨシオは言葉を選ぶように,慎重に発言した.
「中に入るぞ」
 鈴本はそう言うと突然,脇下程の高さの小さな飾り門を押し開けて敷地内に入った.
「え,まずいっすよ」
 ヨシオも抗議の声はあげるものの,鈴本に続いて庭に入って行った.
 相変わらず雨が強いので,二人は玄関の屋根の下まで走った.雨で濡れた服や髪をハンカチで拭いていると,鈴本が突然口を開く.
「あそこにいたら濡れるだろ」
「は?」
 雨に晒されていたのだから当然と言えば当然の配慮だが,怒っているのだとばかり思っていた鈴本の,思いがけない言葉にヨシオは間抜けな声を上げてしまう.
「あ,そ,そうですね」
 しかしすぐに同調し,取り繕った.
「いやあ,面目ないですよ,傘.こんな時に置いてくるなんて」
 ヨシオは照れ笑いをした.
「まあ俺ら,車で出てきて一日中中で働いてるから傘にそんな重要性は持たないよな」
「はあ,そうですね」
 これがフォローなのかどうかよくわからないが,鈴本がそんなに怒っているわけでもないので,ヨシオは安心した.
 それにしても雨宿りならここでなくても車の中ですればいいのにと,ヨシオは考えるようになった.
「それにしても…,奥さんも居ないんですかね.確か共働きでもないはずでしょう」
「俺に聞くなよ.人ん家の家庭事情なんか知るか」
「そうですが…」
 ヨシオが暗に言いたいのは,なぜここで待っているのかということ.居ないのがわかったのなら切り上げて帰ればいいし,待つのならここより車内の方が冷房が効いていてずっといいと思うのだが.
「そんな嫌そうな顔するなよ.少し待つだけだ.林は携帯に出ないし,家にも居ない.奥さんも居ないが,今昼時なんだから帰ってくる可能性はある」
 鈴本の画策は空振りに終わるとしか思えなかったが,ここで帰ろうといって帰る人じゃない.だからヨシオはとりあえず鈴本を乗せるように話を合わせた.
「はあ.まあ,奥さんでも話が聞ければいいですけど」
「そうだろう.ここで奥さんに会って何らかの情報をもらって,話が進展すれば儲けもんだ.それに帰ってきて,家に閉じこもられちゃかなわんから,こうして玄関前で待ってんじゃないか」
 確かに,林の居場所がわかればすぐに会いにいけるし,もし林が昨日から帰ってなくて居場所がわからないということであっても,それはそれで収穫である.
「確かに…」
 しかし,鈴本が林を半ば犯人のように考えている節が見え,ヨシオは複雑な心境だった.