「夏の焦燥」(8/29)
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三、

 警察の質問は「昨日の夕方から夜にかけてのヨシオの行動」と「一緒に飲んでいた四人のメンバーの様子」といった,至って簡単で,ありがちなものだった.取調べをした二人の刑事は,昨日の今日の酒飲み仲間を失ったヨシオに対し,刺激を与えないよう,親切で,それでいて事務的にヨシオに接してくれた.犯人扱いされるかもしれないという不安と,未だ和らぐことのないショック,それを抑える為にも毅然と構えていたヨシオにとって,それはいささか拍子抜けだった.


「飲み屋を出てから,私がみんなを送りました」
「自分の車で?」
 ヨシオの目の前に座っている,がっしりした体躯の中年刑事が,念を押すように聞き返してくる.その横で若い刑事がしきりにメモ帳にヨシオの言葉を書きこんでいる.机と椅子が整然と並んだこの取り調べ室は,会社が警察の取り調べに貸した小会議室だ.
「はい.『きくらげ』を出た後,まず販売促進課の酒井和代を西丸山公園のバス停に降ろしました」
「『きくらげ』を出たのは何時頃だったかわかりますか?」
「えー.10時前くらいだと思います.私が自宅に着いたのは10時半でしたから」
 ヨシオは右上を見て,少し考えてから言った.
 中年刑事の横で,若い刑事がその時刻をメモ用紙に書き留めている.ヨシオは横目でそのメモを見ながら,話を続けた.
「その後,同じ課の鈴本さんを立花の自宅まで送って,それから林と前橋奈美を市井駅まで送り,私は駅前中央通りを通って自宅に帰ったんです」
 駅前中央通りは,前橋奈美の遺体が発見された栄茅(さかち)橋に続く大通りである.
 ヨシオは意に反して刑事二人が事務的なのに,いくらかの不満を抱いていた.そこでこの刑事達を挑発するように,わざと栄茅橋を臭わす駅前中央通りを口にしたのである.ヨシオにとっては自分でも驚くべき行動であったが,これはヨシオに,自分が犯人ではないという確たる自信があったからこそ,言えた口上である.
「そうですか.では別れた時の皆さんの様子はどうでしたか?何か変わったことはありませんでしたか?」
 目の前の刑事は「駅前中央通り」に全く反応することなく,ありきたりな質問を続けてきた.
「いえ…,皆酔ってましたけど、林以外はどれも泥酔とまではいってませんでしたし.特に前橋さんは,私を除いた中で一番しっかりしていたと思います」
 酔いつぶれていた林とは対照的だったので,よく記憶に残っている。
「林さんはまだ出社してきていない様ですが,何か聞いてませんか?」
「いいえ,何も…」
 それだけ聞くと両刑事は「ご協力ありがとうございました.また落ち着いた頃に,ご協力お願いするので…」と言い,ヨシオに退室を促した.ヨシオは警察側が自分をどう位置付けているのか読めないことに不満を感じつつも,促されるままに簡易取り調べ室を後にした.
 自販機コーナーを通り過ぎようとしたヨシオを,横から呼びとめる声があった.
「稲葉」
 鈴本である.
「あ,先輩」
 声の方を振り向くと,自販機前のベンチで鈴本が缶コーヒーを飲んでいた.
「なんか聞かれたか?」
「大したことは聞かれませんでした.昨日の帰りの様子とかです」
 ヨシオはおざなりに答えると,自販機コーナーに入って,奥にある販売機でカップのコーヒーを買った.
「すいませんね,待っててもらって」
 そう言うて,ヨシオはベンチの反対がわに腰を下ろした.別に鈴本に待っててもらうつもりはなかったが,彼がこうしてヨシオを呼びとめた以上,先輩ということもあって,こう言わざるを得ない.
「いや特にお前を待ってたってわけじゃない.どんな奴が呼ばれてるのか気になったんで,ここでこうして見てるだけだ」
 確かにここは,簡易取調室と化した小会議室に続く廊下で,そこに入るには必ずここを通って行かなければならない場所だ.そう言っている間にも,小会議室に向かう女性が一人,側を通りすぎていく.販売促進課の,おそらく前橋奈美の上司だろう.
「林はどうするんですかね.まだ来てませんよね」
 朝から気になってはいたのだが,警察に事情聴取されてから,無償に林が心配になった.
「ああ,来てないな.昨日はアイツどんな調子だった?昨日俺が帰ったあとどんなだったか,教えてくれないか」
 鈴本は探偵でも始める気だろうか,やたらと昨日の経緯や警察の動きに注目している.


 ヨシオが簡単に昨日の話を終えると,鈴本は跳ねるように立ちあがって,向いのゴミ箱に空き缶を捨てた.
「これから林ん家に行かないか?」
 彼は振り返るなりヨシオを誘った.もちろん,今は就業時間である.腕時計を覗くと針は11時25分を指している.会社の昼休みは12時から1時までだから,今からなら一時間半の時間がある.林宅に行って帰って来ても午後の仕事には間に合う時間帯だ.
「午前の分の仕事がありますが…?」
 ヨシオは賛成の意を含ませつつ,当たり前の反論を立てた.彼は,鈴本がその持ち前のしたたかさで,残りの就業時間35分を押し切ってくれることに期待しているのである.
「あと30分で昼休みだ,警察の事情聴取が長かったことにして,サボっちまおう」
 案の定鈴本は怠業を迫ってきた.言わば誘導尋問である.林のことは大分気になっていたので,ヨシオは即刻,その案に同乗した.
「そうですね.じゃあ,俺が車出します」
 ヨシオは残りのコーヒーを一気に飲み干すと,鈴本と共に自販機コーナーを離れた.